子供のように、たくましく

実家で2歳8ヶ月の甥と遊んでいると、甥が奇妙な音の出るおもちゃを手に取った。
「これは?」と聞かれて、困ってしまった。
去年、奇妙な音を出したら、泣き出してしまったからだ。
何度もせがまれたので、仕方なくおもちゃの音を出した。
甥は泣き出す代わりに、ぐっと顔をしかめて「怖いー」と言った。
「ああ、成長してる」と思った。
いつまでも赤子のように泣いていては、人間関係を築くことはできない。
怖くても、痛くても、ぐっと心にしまって、平静であらねばならないときがある。
いつか甥っ子が社会人になったとき、僕と同じくらい年の離れた上司や取引先に、
辛くても笑顔で対応する時が来るのかもしれない。
動物には真似できないほどに、人は忍耐力を持つ。
本能を中心に生きる動物は、食べたいときに食べて、
排泄したいときに排泄して、眠りたいときに眠る。
人は時に本能を超えて、自分よりも周りの人のために動き、
仕事を完成させるために行動し続ける力がある。
それは、誰もが少しずつ養ってきた力だ。
赤ん坊の頃には、本能に忠実に生きていた。
眠たければ寝る、お腹がすいても、排便しても、寂しくても泣く。
満足するまで泣き続ける。周囲の人が面倒をみて、赤子は体の調和を得る。
やがて子供になり、言葉で眠気や空腹を訴えられるようになる。
駄々をこねて欲しいものを訴えても、周囲に叱られ、励まされながら、
少しずつ我慢を覚え、理性的に思いを伝えるようになる。
悲しいことがあってもすぐに泣かずに、家に帰ってから泣く事ができるようになる。
まるで身動きが取れなかった赤子の頃から、這い、座り、立ち、しゃべり、
たくさんの試練を超えて成長してゆく人間には、
他の動物とは比較にならないほどの努力と忍耐が必要だったはずだ。
ホームビデオで記録されている赤子の僕は、
目を輝かせながら母のもとへ「ハイハイ」をしていた。
母は僕が少しずつ進むのを幸せそうに見つめながら、掛け声をかけて応援していた。
「よいしょー、よいしょー、上手、上手」
それは、本当に小さな一歩だった。
でも、僕も母も楽しそうで、希望に満ちていた。
たとえ覚えていなくても、誰もが皆、小さな一歩を積み重ねて、今を生きている。
だから、もし今、技術を習得する過程で困難を感じていたとしても、諦めることはない。
その技術が奥深いものであれば、それだけ道のりは険しく感じるかもしれない。
それでも、その先に希望があるなら、赤子が動き始めた時の様に、
這ってでも進む根性を発揮しよう。
少しずつでも良い、諦めなければ、やがては立ち上がり、
大きな一歩を踏み出せるときが来る。
子供のように、たくましく、僕はヨガを続けたい。